㍿こんにちあーりん🌷

妄想創作を業務とする会社です。前四半期も利益は全くありませんでした。

遅刻の理由

 その日の朝、私は初めて学校に行かなかった。学校に向かう気になれなかった。
 この時期には珍しく、今にも雨が降りそうな鉛色の空。そんな中、私は無意識に海へと自転車を走らせていた。

* * *

「うーん、違うなあ。『さて!では!』って勢いついてるでしょ?いつもの通りにもう少し落ち着いて。じゃ、もう一回。」

 いつもの通りに、いつもの通りにと思っているのに、いつもの通りがわからなくなる。繰り返すたびに私がいつもどうしていたのか、わからなくなる。
 気が付けば貴重な稽古時間は、「さて、では。」の一言だけで30分も過ぎていた。
 たった一言の重み。全部同じ「さて、では。」のはずなのに、さおさんにはすべてバラバラに見えている。なのに、1つ目と今、何が違っていたのかそれすらわからない。

 さおさんが求めている「正解」が全く分からない。深く入り組んだパズルのよう。
 そんなヒントすらわからないパズルを目の前にした軽い絶望と、さおさんの期待に応えられない自分への失望が入り混じり、場の空気に耐えられず、私は稽古場を出てきてしまった。
 それからどうやって家に帰ったのかはっきりとは覚えていない。家に帰ってきて初めて、ムラから携帯でメッセージが届いていたことに気付いたくらいだ。

「明美、大丈夫?」

 携帯のスリープ画面に浮かび上がるメッセージ。
 優しいはずのその一言が、逆に私を苦しめた。私のせいで稽古が止まったこと、勝手に帰ってきてしまったこと、そして何より、こんなに迷惑をかけているのに、いまだに、どう演じていいのかの正解がわからないこと。
 同級生からは、いつでも明美はすごいねって言われてきた。先輩の前でも物怖じしないし、それでいて仲いいし、どんな役も器用にこなしちゃうもんね、って言われてきた。
 器用にこなしてきたんじゃない。先輩みんなに嫌われたくなくて、気を使ってるだけだし、役のことだって別にユッコ先輩みたくいつでも100点満点ってわけじゃじゃなく、無難に70点くらいを取り続けているだけ。ごまかし続けてるだけ。
 
 明日が来るのが怖かった。明日が来たら、また稽古場に行くことになる。みんなにまた同じところで迷惑をかけることになる。
 ……いや、本当はみんなに迷惑をかけることなんかより、もしかしたら、器用さのように見せかけて、その場を無難にやり過ごしごまかすだけの性格が見透かされてしまうのが怖いのかもしれない。
 そして何より、それをさおさんに見透かされてしまうのが一番怖かった。

* * *

 私が、さおさんに憧れという感情を抱き始めたのはいつの頃からだろう。まだ1年生のころ、演劇部の部活紹介を見て、なんとなーく部活に見学に行ったときにさおさんに出会った。
「へー、演劇部に憧れて……かあ。私なんてあれよ。ユッコの付き添い。ユッコが一人じゃ恥ずかしいからって、付き添いで部活紹介にね。それで、そこでちょっと台本読んでみなよって。杉田先輩に言われて。そしたら褒められちゃって。で、調子に乗って今に至るの。ふふっ。加藤さん、だっけ?加藤さんはすごいね。演劇をやりたくて演劇部に来た。それだけでもう才能だよ。ようこそ、富士ケ丘高校演劇部へ!高橋さおり。クラスではなぜかみんなにさおって呼ばれてるの。さおりって呼んでくれるのはユッコとがるるくらい。ふふっ。よろしくね。」
 その時に言われた「それだけでもう才能」で私も勘違いしちゃって、そこですぐに入部した。さおさんはいつもにこにこしていて、太陽みたいな人だった。前の部長だった杉田さんのことをすごく慕っているのが私からもよくわかって、なぜか少し嫉妬したりもしていた。その時の1年生の教育係はさおさんだったから、自然とさおさんの背中を見ながら私たちは演劇の基礎を教わった。発声、基礎体力、表情、動き、それらはさおさんから教わるものが多かった。さおさんの背中は華奢な体とは裏腹に大きく見えて、いつしかその背中に憧れを抱くようになった。うーん、憧れ?いや、憧れというよりも、好きに近いのかもしれない。というか好きなんだ。

* * *

 大好きなさおさんに失望されてしまうこと、それが何より怖かった。
 みんなのことより、自分が憧れの先輩に失望されてしまうかも、という独りよがりの理由で勝手に落ち込んでいるだけなのに、こんな優しい言葉をもらう権利が私にあるのだろうか。
 そう思うと、それを既読にすらすることはできなかった。できればその言葉を知らないままでいた方が、まだ楽なのかもしれない。
 携帯をそっとオフにして、家族の前では努めていつもの通りにふるまった。皮肉なもので、こんな時にはいつもの通りの自分を演じられてしまう、そんな私がいやだった。
 ベッドに入っても、まだ朝が来なければいいと念じ続けていた。
 このまま朝にならなければいいのにな。ずっとずっと。できれば、もう少し前の楽しかった稽古の日に戻りたい。ずっと、ずっと楽しかったあの日のままにしておきたい。
 そんなことを考えながら目を瞑っては眠れずにまた目を開けて、いつもの通りの天井をただただ見ていた。 
 そう、さおさんが演出でなかったら、もしかしたらこんなに悩まなかったのかもしれない。大好きなさおさんの台本でなかったら、全然問題なかったかもしれない。
 今のままじゃ。大好きな人の邪魔でしかない。そんなのつらい。
 そんなことを考えているうちに、いつもの時間に目覚まし時計がけたたましく音を立て、私はベッドから立ち上がった。
 家族の前でいつもの通りの私を軽く演じて見せた後に、私はいつもの通りに家を出た。

 学校に行かなきゃ。授業に出なきゃ。部活に行かなきゃ。……わかっているのに、いつもは軽く動いてくれるはずの右足がペダルを漕ぎ出してくれなかった。
 ハンドルは無意識にいつもと逆のほうに向き、私の右足はやっと自転車を漕ぎ始めた。
 ただ、学校に向かいたくなかった。それだけの気持ちで自転車をいつもとは逆のほうに走らせていた。工場の煙突はそれでもいつもの通りに空高く煙を吐き続けていた。
 どのくらい走っただろうか。海が見えてきた。私は堤防沿いに自転車を止めると、そのまま砂浜をゆっくりと歩いた。
 さっきまで鉛色だった空は、奥のほうから徐々に青く染まってきていた。
 きっと、ムラもナリさんも高田も心配してるんじゃないかな。私が学校に来ないなんて今まで一度もなかったもんね。
 おかしいな。自分でも不思議なほどに、あれほど行きたくなかったはずの部活の仲間がなぜか真っ先に思い浮かんだ。

* * *

「なあ、ムラー。明美に連絡取れたの?」
「うーん、全然既読が付かない。」
「こりゃ重症だな。昨日のがよっぽど堪えたんかなあ。でもあんなんでこんなに落ち込むなんて明美らしいよね。あたし、あれで落ち込んでたらもたないわー。」
「器用な明美とは違って、高田は怒られてばっかりだもんね!」
「うっさいわ!でさ、どうする?さおさんにも一応……。」
「だめ、それは一番明美がつらくなる。きっと明美のことだよ。部活までには来るって。」
「……わかった。ムラが言うんなら。信じるよ。」
「うん、もし来なかったらそのとき考えよう?大丈夫だって、私たち、劇部の部員だよ?そのくらいアドリブでどうにかできるって!」
「アドリブなら得意!まかしとき!」
「明美には私からちゃんと連絡しておくよ。明美なら大丈夫。絶対明美が来たくなるようなメール、書いておくから!」
「なにそれ?脅すの?こわいわー。」
「ふふふふふ!」
「ははははは!」

* * *

 どのくらい海を見つめてただろうか。気が付けば空はすっかり青く晴れ渡り、波も心なしか穏やかになった気がした。
 さすがに無断で休むのはよくないな、っていう元来のまじめな性格の私が急に顔を出してきた。
 ムラに連絡して、先生にでも一言言っておいてもらおうかな。そう思って携帯の電源を入れた瞬間、ムラからメッセージが届いた。

「遅刻の理由、適当にでっち上げておくから、ごゆっくりどうぞ。」

 なんだ。全部お見通しか。察しがいいなあ。「遅刻の理由」か。これじゃ休めないじゃん。全部お見通し。ムラってばすごいな。
 器用になんでもこなそうとして不器用なところを見られたくなくて、なのに、ムラはそんな私も全部お見通しで、私一人で何やってたんだろ。もう、やだ。なんで私海見ながら泣いてるの?こんな台本じゃベタすぎるじゃん。
 台本……。そうだ、台本。さおさんが書いた台本。「作 高橋さおり」と書かれた台本。大好きなさおさんの作った物語の一員になれるんだって、配役発表の時にあんなに喜んだじゃない。一緒に物語を作れるって喜んだじゃない。
 
 ねえ、明美?どうせ悩むんなら、稽古場で悩めばいいじゃない。一人で考えても正解なんてわかるわけでもないし、みんなと一緒に悩もう。私を心配してくれる友達と、そして、大好きなさおさんと。だから、行くよ、明美!
 
 「ごめんね、ありがとう。3限には行く。で、遅刻の理由、何にしたの?」

 とりあえず、私はムラにメッセージを送って堤防を降りて自転車に向かった。しばらくして、ムラから返事が来た。

「ん?理由?恋煩い。」

 なに、その理由!ありえない!バカ!もう。もっと学校行きにくくなるじゃん!
 ……でもそっか、ムラには全部お見通しか。
 私は3限に間に合うように、いつもの通り学校に向けて右足で自転車を漕ぎ出した。